物事に向き合うときは、
盲目的に嵌まり込むような側面と、
一歩引いて本質を見極める側面の
両方が必要になります。
そして、その面白さに気付くには、
絶対的に「行動」が伴う必要があります。
勉強で成果が出せない場合、
まずはその端緒となる行動が
起こせていません。
そして、行動の継続が
できていません。
私は、ゲーミフィケーションには
否定的な立場です。
ゲームのようにのめり込むのは
方法論として正しいと思いますが、
勉強をゲームのようにするのは
話が違うと思います。
自分なりの学び方、
自分なりのものの見方、
それと、学びの対象との
関係性を自分の中に作り出す
関心という力、それを
育むための最も基本となる学習習慣。
面白さという価値は、
自分で生み出せるものです。
面白いと思えないならば、
それは、価値観が貧弱だということです。
ある程度精神的な成熟と、
学問の達成度は比例します。
そのような子は共通して
出来ない理由を他者に転嫁します。
自分と、学びの対象との関係を
作ってゆくこと、それによって
見える世界が変わり、
説明できる世界が広がり、
価値観すらが変わるということが
学問の喜びなのですが、
いつもさせられて、
いつも人のせいにして、
自分と学問の対象との
間に壁を作る子は将来的に
人にも好かれなくなります。
中学生の親御さんは、
是非お子様にこのブログを
見せていただきたいです。
私が子どもたちと一緒に
見ようとしている次元と、
子どもの今の次元は、
ほとんどの子がかけ離れています。
それでも比較的成績も
上位にいる子もいますが、
もう一皮剥ける必要があります。
成績がよくても、そんなに
面白くないな、と思う子もいます。
それはなぜか?
問題集を上限として、
満足しているからです。
今日、中学3年生には
cultureの語源について話しました。
これは、耕すこと、が語源であり、
後に教養や文化を表す
言葉になりました。
与えられたものに満足する、
それで、より優れたものを
生み出せるでしょうか?
積極的により良いものを
生み出そうとするところに、
国の文化が育まれたのと同じように、
積極的により良い自分を
耕そうとするところに、
より高い次元にある自分が
形成されてゆくのではないでしょうか?
レシピをいくらまねても、
レシピ以上のものは作れません。
この調味料は料理の味にどう
作用するか?という基本的な理解。
この素材の組み合わせで
どんな味わいが生まれそうか?という
想像力。
料理も同じことです。
今は、情報にいつでもアクセスできる
良い時代となりました。
もちろんリテラシーも必要ですが、
それでも、昔よりもはるかに
良質な情報にアクセスできる
機会が飛躍的に増えました。
そんな良い土壌で学んでいるのに、
未だに古典的な次元で学んでいるのは
ナンセンスです。
先生など、いつでも超えられます。
教えてもらうまで待つ必要すらなく、
指導者と生徒の関係は、
価値観の交換という次元で
成り立つこともありえる
時代になりました。
先生も知らなそうなことを
調べることはいつでも可能です。
そんな学びって面白そうでは
ありませんか?
そうしているうちに、
勝手に賢くなっていた、みたいな
学びが確立することが、
私の最終的な目標です。
教えられるのを待っている
二流の子を、一生懸命
二流にとどめながら、
自分の地位を安泰なものに
しようとする気持ちは
一ミリもありません。
私を超えてください。
脅かしてください。
そして、自分はもう先生を
超えたから、と捨てていいです。
それでいいと思っています。
本気で打ち負かしに来てください。
指導者として、指導者を超える
力を持つ子が育つというのは
本望なのです。
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