私は、今の教室の雰囲気がとても好きです。
なんというか活気があり、それぞれに
自分がやりたいことを好きなように学び、
コミュニケーションを取ります。
「もうiPad飽きた。国語する!」
と5年生が国語の課題をやっていると、
6年生が横にやってきて、一緒に考えています。
ー「その問題、今言葉を探そうとしているのに
探すときの視点がないように見受けられる。
どんなことが答えとなりそうか?という
考え方が先に来ない思考は国語的じゃない。
”食通の人は不幸だ”と書かれているが、
君が例えば食通であって、君が周囲から
不幸だねって言われるとしたらどんなことかね?」
「そうですね、普通の食事が美味しいと
感じられないことでしょうか?」
ー「まずはその視点が大切。自分なら
どう考えるか、ということ。そして、
筆者はそのことについてどう述べているかな?と
筆者の意見を探っていく視点が国語には必要だ。
筆者は一体その件について何と言ってるかね?」
それを横で聞きながら、6年生が頷きます。
人は、等しく、賢くなるきっかけを
与えられるわけではありません。
単に通塾しているというだけで
得られるものと、そうでないものもあります。
それはある意味、自分で掴んでいくものでもあります。
そういう意味で、今日休み時間に国語に没頭した小5と、
その側で一緒に考えた6年生は、受け取ったものが
人よりも多かったということになります。
普通で終わらない子どもは、いつも関心が
平凡なものではなく、別のところに向いているものです。
そして、それに気づいてくれた人とともに、
歩み出し、捉え、糧としてゆくのでしょう。
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