様々な学校の生徒を預かっていて、特に大変だな・・と思うのは公立で授業をまともに行ってくれない教科がある学校。
特に、致遠館・成穎・附属で過半数を占めている塾だから、公立の子がどう授業を受けているのかよく小耳にはさむけど、学校の先生が指導の場でキレていなくなるっていうのは悲しい。小学校の先生は言う。「普通は公立に進む。学校の授業が大切。」そして、中学校の一部ではこうだ。「言うことを聞かないなら皆知るか!」。ほんの一部だけどね。これもまた。
こういう現状があるから公立離れが進んでいると言うのに、小中連携もクソもない。確かに授業中聞かない生徒がいる、掛け算や割り算すら成立していない生徒がいる、これを同時に教えるのは私には無理だと断言できる。こういう生徒は、できると自信をつけるまでに時間がかかるし、使うエネルギーも桁違いだ。集中的に個人指導をする塾でさえそうなのだから、もっと幅広い層を相手にする学校の負担はその比ではない。けれど、旧態依然とした方法で、公立かくあるべきと言う画一指導で、何か解決しているのか?と。さらには、教えあいの導入によって、ますます学べる子の時間を奪い、「学校の先生時々俺らが熱心に苦手なやつに教えてる時に寝てたりするんです」とかいう事実まで発覚してくるから、どう反応していいか困る。
近所の成章中は、結構熱心な指導が行われているなと分かるし、嫌いな先生がいると言われることもあるけど、授業放棄したということは聞かない。親御さんも、勧興や神野の時から意識高く学校活動に関わる方も多く、それゆえの学校への信頼感と、学校風土なのだろうと思う。
できるだけ、毎週まともにきちんと授業をしてくれ、週ごとに知識確認のテストも行ってくれ、割と熱心に個人指導をしてくれる学校へ・・・そういう学校へ流れていくのは自明の理だと言える。成穎は、特に個人指導や声かけが丁寧だと生徒を見ていて思うし、致遠館は補習を行う足切りの点数が基本的に8割と高く、しっかりプレッシャーをかけてくる。それゆえに、できた時の達成感があるのだ。
公教育がどうだとか、学生時代に議論したことがあった。こうあったらうまくいくとか、こうあるべきだ、とか・・・そういうのは全部とは言わないけど、不毛なことも多かった。現実なのだ。親御さんは、良い環境があれば選択したい。選択できるならそうしたい。そんなごく当たり前のことを見逃した議論だったと、今振り返れば思うことがある。
できれば、塾通いしながら附属か致遠館。多少お金はかかるけど、成穎か清和。実力があれば、弘学館。もっと突き抜けていれば県外。まともに子どもさんに投資されてこられたご家庭は皆口を揃えてそう言う。人が環境に染まりやすいことを知っていて、かつ、自身のお子さんがどういう性質なのかをよく理解しているから出てくる言葉だ。ナチュラルに何の手も施さなくてもできる子は、公立の上位に点在しているけど、彼ら彼女らも言い換えれば学習機会を奪われているという見方もできなくはない。それは、個々の議論に任せるとしても。
・・・さて、そんな中で私のスタンスなのだけれど、私は公立でもいいと思っている。うちは、私立や一貫校や附属が多い。同じ模試を使って、実力測定をすることもあるけど、それで負けなきゃいいんじゃない?と思う。身についているかが大切であり、確かに公立の生徒は状況的にはかなり苦戦するけどね、負けなきゃいいんだよ。逆にさ、私立や一貫校は圧倒的であれ。
私は公立でずっと学んできたし、学校の授業とか聞いた覚えがほとんどない。授業中はずっと授業を無視して教科書を読んでいたし、予習もしていた。環境で負けてるから、全部負けるのだと決して思うなよ。逆に、環境で優っているとしても、決して慢心するな。自分で学ぼうとしなければ、どこへ行っても一緒だ。
だから、うちの大半を占める私立・一貫校・附属の生徒には口すっぱく、大変な公立と同列で語られるのはプライド折られるのとイコールじゃないの?っていうし、公立の生徒には、片っ端から周囲のプライドを折れ!って言う。
等しく中学受験レベルの難問の読解力を作り上げ、基礎知識を身につけてもらい、中学の土台を作っていく。それは等しく行う余裕のある小学校段階での指導。後の勝負って、ある程度は君たちのものじゃないの?って。そう言う感覚なんだよね。
0コメント