この故事成語を批判する人もいるかもしれませんが、自分はそんなに批判的には見ていません。最終的に自身の手元から離して、自分の力で事をなして貰おうと考えるにおいて、精神が未熟な場合であったり、何が何でも下克上という精神がなかったりする場合、おおよそ鶏口牛後の故事成語のように、生徒の進路指導を促す場合があります。
私は、しがない田舎の中学校に進学し、学年トップ3を争うメンバーに与していました。中学受験は塾の先生の意向によって行わず(まさに鶏口牛後の進路指導)、学校でトップクラスであるという時期を3年間経験しました(井の中の蛙です)。私には、勉強が好きという以外のモチベーションがなく、それで負けては折れるという精神的未熟さによる判断だったと思いますが、英断だったと今になってみれば思います。たとえ合格しても、気持ちが折れては意味をなさず、学年で中くらいの成績で宙ぶらりんになるくらいなら、田舎のしがない中学でトップくらいでちょうど良かったのです。
もちろん、高校になって成績は奮いませんでした。しかし、その時には自分を割と客観的に見る能力が育っており、「私の立ち位置はかつてここではなかった。だから、今取り戻さなければならない。」と奮起できたのも、鶏口牛後の経験からのことでした。相当頑張りました。いや、頑張れたというのが正しいです。絶対的にトップグループであるためには、学習内容をどのように支配すれば良いのかを知っていたという経験、理解っていうのはどの程度の感覚をいうのか、ということや、しっくりくる学習方法を自分の中に編み出しており、だからこそ一気に自力で努力しきることができました。
一度は何かを完璧に支配していたという成功体験って、必ずその後の学習方法を作っていくものです。人はどこからでも奮起して努力できます。しかし、成功体験がどうしても要ります。それは、受験をする際に、何一つ分からないという状況から始める時に、リーサル・ウエポンに取り組んだ彼らが数学を好きになっていくプロセスと似ていて、何かを理解したと頭で判断し、これが理解したっていう次元なのか〜って分かる、そんな経験から、その感覚に全教科を近づけていくような努力があったから、彼らもそのように努力ができました。
鶏口牛後は、学校単体での位置付けという点でも、取り組む問題集のレベルという面でも、案外有益な視点だと言えます。もちろん、優秀で持て余している子は、どんどん上を目指しましょう。あくまでも、意識や能力にぐらつき、不安、不足がある場合に限った話です。
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