久々に生徒を叱る。
I see.の和訳が「ああね。」になっていたという、
たった”それだけ”のこと。
しかし、”それだけ”には幾つかのケースが考えられる。
一つは、ある程度知識を知っていて
訳をわざと雰囲気に合わせている。
一つは、ある程度知識を知っていて
私にそれを見せて楽しんでいる。
一つは、無知識にも関わらず調べもせず、
なんとなくそれっぽいからそう書いている。
上二つは、結構英語ができるグループとか、
英語ができて、なおかつ私と仲が良いとか、
そうであるから本番はちゃんと書けるし
特に咎めるということはしない。
しかし、今回は一番最後のケースだったから叱った。
そもそも和訳を組み立てよう、という時に
教科書の後ろも辞書も全く開かない、という
その意識の低さに対して叱ったのだ。
教科書の和訳は、動詞が何であるかと、
前置詞に気をつけておけば大体可能だ。
I see.のような慣用的な会話表現は教科書の後ろを調べれば
必ず書いてある。
そういう細々とした自立して学ぶための
ルールを一つ一つ教えることによって、
一人で学んでいける準備が出来ていく。
私は、勉強しようとしない生徒に対しては
ことごとく冷たい。
なんで先生そんなにキレてんの?って
他の生徒が思うほどに叱り飛ばす。
しかし、それはできるようになる努力もしていないのに、
やり方も尋ねず、やろうと試みもせず、
なんとなく事なきを得ればそれでいいと、
そんな風に思っているのが目に見えて分かるからだ。
「悪いことは言わない、そういう意識なら絶対伸ばせないから
無駄な投資は止めてもらったらいい。
君になんて投資しても無駄だから、
君からそう親御さんに言いなさい。
高校も行かなくていいだろう。
出すのは親御さんだけど、意識の低い君が
どんな投資を受けても日本は明るくならない。
今この言葉に対して悔しく思うなら、
いまこの瞬間から何かを変えてみせなさい。
俺は君が変わるか、君が俺に負けて塾を去るか、
そのいずれかに至るまで厳しく接する。
絶対手は緩めない。覚悟しなよ。
俺は君がここに在籍する限り、伸びるまでやる。」
と。まあ、その子もまだ入塾してすぐなので、
これからいろんな面で変化があるでしょう。
去年のパーリーピーポーの彼の入塾初期の頃を
随分思い出しましたね・・・
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