先日、先生紹介の作文を書いてもらったグループは、
多くが”先生はやさしい”と書いていたので、
ほとんど全員に「どんな点から優しいと判断したか説明しなさい」
という書き直しをさせた。
先生を形容するときにやさしいと書けるほどに
関わりを持っていない子たちなのに、
その言葉を安易に選択してしまった子は、
「どこが優しいんだっけ・・・」とずっと悩んでいた。
これは、まるで読書感想文に行き詰まる様子の
デジャブである。
安易に選べる言葉、というのがある。
楽しいとか、優しいとか、嬉しいとか。
ポジティブで、悪い印象がないし、
多分先生”一般”に漠然とそういうイメージを
持っているということは大いに理解されたけど、
それでは作文にならないのだ。
これは、世間に存在するソーシャルメディアの言説にも
当てはまるのではないだろうか?
大体の雰囲気で賛同するとか、
大体の雰囲気で意見を書くとか、
そういう漠然としたものに漠然とした評価を下して
それで説明し抜けた気になっている。
自分の意見を書く、というのは
決してそういう次元に止まってはいけないものだ。
ついでにもう一点付け加えておいた。
「人は、そんなに優しくないし、
そもそも優しいっていうのはどういうことなのか、
俺だって考えるくらい難しいよ。
だから、その言葉は安易に使うべきではない。」
その点、小4の子の作文は実に真っ直ぐであった。
「先生はすごく面白そう。
自己紹介の時に、自分のことを
●●(苗字)ウサイン・ボルトだって言ってたから。
そのときは本当に楽しくて、いい先生だと思った。」
みたいなね。
変にカッコつけず、ありのまま書かれたその作文は、
私にとっては最も好印象だった。
ああ、先生は陸上部出身で足が速かったんだろうな、とか、
生徒にジョークをいっぱい言って楽しませてくれる
にこやかな先生なんだろうな、とか、
色々想像できる文だった。
親御さんが表現者だからだろうか。
その子は絵にしろ文にしろ、
何か人を引き付けるようなところがある。
かっこいい言葉っぽいのを選んで、
書けた気になっている魂の抜けた文を書くような、
一見スマートに見えるような作文は、今後は書かせない。
書いて欲しいのは、綺麗な文ではない。
グッと周りを引きつけるほど”その子”が表現された文だ。
その点を絶対勘違いさせず、
自己表現としての文作を楽しんで欲しい。
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